西予市の暮らしを時代、地域別に紹介-弥生時代の宇和(6)
北宇和郡鬼北町の興野々寺山遺跡は、弥生時代後期の集落遺跡です。この遺跡から検出された11棟の住居址は、いずれも1辺が3m程度の方形小型のもので、柱の穴を持たないという特徴があります。宇和盆地の弥生時代の方形の住居址が1辺7~7.5mほどで、円形では直径が5.6~6mになり柱を持つことと対照的です。
いうまでもなく宇和盆地では稲作が営まれていて、稲の世話をするためにはその土地に定住する必要があります。したがって住居もしっかりしたものを作る必要があります。一方、興野々の柱をもたない住居だと長期間定住するというわけにはいかないでしょうから、稲作のような定住が必要な生業が営まれていたかどうか疑わしく思われます。石器は、たたき石や石皿といった木の実をすりつぶす道具と、石錘という漁網につけるおもりが出土していて、採集活動や漁労など縄文時代的な生業が営まれていたことが想定されます。石鏃も出土しているようですから、狩猟も行っていたのでしょう。しかし稲作を営んでいた証拠は確認されていません。
弥生時代の南予では、この興野々寺山遺跡のように、内陸部でも稲作を主な生業としない地域が存在したのです。
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更新日:2021年10月18日