宇和海沿岸の農漁業と交流
宇和海沿岸では、リアス海岸湾奥の狭い扇状地に集落が営まれ、古くから沿岸での漁撈(漁業)が生業の中心であったと考えられます。中世の石造物からは、九州豊後や瀬戸内方面との海を介した交流があったことがうかがえます。
近世には鰯網漁が盛んで、鰯を干した干鰯は、肥料として綿栽培の盛んな上方に販売され藩の重要な財源となりました。水が得られる谷筋では稲が栽培されましたが、斜面地の大半では麦、甘藷、櫨などの栽培が行われました。
近代には、狩江、垣生などで木綿織りが盛んになり、縞(しま)の名で知られた木綿織を、九州や土佐等の山間部で行商し現金収入を得ました。明治後半頃からは養蚕が盛んになり、集落では養蚕関連施設が整備されました。斜面地では、蚕の餌である良質な桑を栽培するために段畑の石垣化が進み、石積みによる段畑景観が形作られていきました。
三瓶では、近海や遠洋漁業を行う者が出てきました。海岸部から宇和へは魚肥や海産物が、宇和から海岸部には米や繭、木蝋、甘藷、木材などがもたらされ豊後や大阪方面へ移出され、三瓶隧道など交通路が整備されました。また、埋め立てや港湾の改修が進められたほか、工業用水が得られる地の利と安い労働力を活かして、三瓶織布株式会社設立、八幡浜紡績工場の移転など工業化が進み、商店街や住宅地などの形成、町の発展につながりました。
宇和海沿岸での漁業を中心にしながら、好不漁の波を斜面地農業や木綿織、養蚕、紡績、遠洋漁業などで補いながら生活を営んできた人々のくらしを伝える歴史文化です。
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更新日:2024年05月16日