地質と地形を活かした石灰産業
高山浦では、文政 11 年(1828)、岩井で石灰を焼いていたとの記録があり、原初的な木炭焼きが行われていたと思われます。嘉永 3年(1850)土佐で石灰焼きを学んだ宇都宮角治が小僧都に窯を築いて、本格的な石灰生産を始めました。翌年にはすでに他の村浦へ搬出するほどで、慶応ころには石灰や炭の運送、問屋の出現、縄や菰作りなど周辺の仕事も見られるようになりました。
岩井の石灰窯は、市内で唯一の明治初期の木炭を燃料とした窯と考えられています。高山では明治 5 年(1872)には北九州から石炭(煽石)を導入しており、これに伴い窯は大型化していきました。明治 16 年(1883)に浅野総一郎が生石灰調達のため来村し、明治 22 年(1889)には高山の工員約 20 名が東京青梅で石灰窯を造成したとされます。明治 4年(1912)の窯数は、休業中のものも含めると 100 基を越え、年間の生産高は 418.3万俵、船舶数は 32 隻を数えました。当時の石灰の搬出先には北海道、越後、越中、能登、関西、中四国、九州、朝鮮半島などがありました。大正期以降は、化学肥料の普及による販売不振や太平洋戦争の影響を受けました。戦後は特需や岩戸景気もあり復興を遂げましたが、昭和50年代に終焉を迎えました。
この間、高山の人口は明治 23 年(1890)で 3,769 人、昭和 25 年(1950)には 6,154 人と大きく増加したこともあり、商店、醸造業、旅館、映画館などが作られたほか、後背農地を宅地化するなどして高密な町並みが形成されました。
土佐から学んだ技術で地元に産出する石灰岩を加工し、海と山が隣り合うリアス海岸の地の利を活かした産業によって町の発展につなげ、一時代を築いた地域の歴史文化です。
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更新日:2024年07月19日