交通の要衝・宇和盆地

更新日:2024年12月20日

近世の宇和盆地は、宇和島と大洲を結ぶ街道の中間に位置し、さらに八幡浜や野村との結節点に当たる交通の要衝にありました。黒瀬城の対岸山麓に営まれた松葉町は、移転し名を変え卯之町と呼ばれるようになり、宇和島藩の在郷町として栄えました。近世文書からは、卯之町が計画的な地割に基づき形成されていたこと、街道を挟んで両側に屋敷地が並ぶ姿と、中町と下町に商人が多く居住していた様子などが復元されています。

宇和盆地と周辺との往来には、鳥坂峠、歯長峠、法華津峠、笠置峠などを越えなければならず、在地の人々のみならず、商人、遍路、時には参勤交代の藩主や蘭学者も峠を行き交いました。

長崎でシーボルトに学んだ二宮敬作は、長崎追放後、卯之町で開業。シーボルトとタキの間に生まれたイネは、敬作を頼って卯之町を訪れ、敬作のもとで蘭学、医学を学んだとされます。嘉永 2年(1849)逃亡中であった高野長英は敬作のもとを訪れ、卯之町に潜伏しました。敬作は、同 5 年には藩の許しを得て卯之町で種痘を実施しています。敬作は塾を開き教えを乞う若者たちを指導し、その中には後にイネの娘タカと結婚する三瀬周三もいました。

敬作の薫陶を受けた若者たちは、養蚕、製茶、金融などの産業振興のほか、申義堂や開明学校の建設などを通じて、幕末から近代の卯之町の発展に貢献しました。近代の卯之町には、役所や郵便局などの行政移管が屯所、裁判所の出張所などが置かれ、東宇和郡の行政の中心地としての役割を担いました。

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