山間部の農業と手工業

更新日:2025年02月20日

西予市には縄文時代の洞穴・岩陰遺跡が多く、穴神洞遺跡や中津川洞穴遺跡などからは、洞穴や岩陰を生活の場としながら、周辺の山野で狩猟採集を行った様子がうかがえます。

藩政期には、野村の兵頭太郎右衛門が発明したと伝わる泉貨紙の製造と櫨の栽培が奨励されました。安政4 年(1857)の野村組の泉貨紙手漉き業者は864 人、山奥組524 人とあります。山間部では、ため池を整備し米も作られましたが、平地が少ないため畑地が多く、雑穀、櫨、茶などが栽培されました。焼畑は近世から一定程度見られましたが、近代以降に特に盛んになり、雑穀、トウキビ、三椏などが栽培されました 。

宇和島藩の自然条件は低生産性と零細性を持つことが指摘されており、藩による泉貨紙、楮、櫨の専売や統制による負担などもあって農民の生活は決して楽ではなかったと考えられます。村によっては耕作する者のいない中地が増え、希望者を移住させる百姓の取組が進められました。また当地では百姓一揆が多く発生したと言われています。

明治末期から終戦ころにかけて、愛媛県は西日本有数の養蚕県でした。野村では昭和5年(1930)からの養蚕不況で大打撃を受けながら戦後も養蚕を続け、野村産の「伊予生糸」は、平成28年(2016)に農水省の地理的表示保護制度に基づく産品に登録されています。

戦後の壮絶な開拓とブナ林の保存運動で知られる大野ヶ原は、県下屈指の酪農地帯へと成長しました。

山間地の限られた自然条件を活かし克服しながら産物を生み出し、より豊かに暮らそうと生きてきた人々の営みによって現在のくらしが成立していることを知ることができます。

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