伊予と土佐の交流

更新日:2025年03月20日

当市の山間部は、土佐国境に接していることから、戦国時代の国人領主たちは宇和郡の最前線にあって生き残りをかけた難しい選択を迫られる場面も多かったものと思われます。永禄12年(1569)甲ヶ森城主・長山伯耆守は、土佐一条氏から切敷六町を与えられます。天正期には北之川氏、魚成氏が長宗我部氏に内通し、菅田氏と連携して西園寺を包囲したとされます。また、北之川親安は元親と姻戚関係を持ちました。

韮ヶ峠、桜峠、大茅峠、九十九曲峠といった複数の峠を介した土佐との往来がありました。藩政期には人や物資の集まる惣川が栄え、上浮穴方面に抜けるルートもありました。天明8年(1788)の惣川村騒動では、飢饉で困窮した農民70名が徒党して大洲領古田村(現内子町)へ逃散したように峠越えの往還を利用した移動もみられました。

近代には土居が発展しました。檮原から茶、木材、楮、三椏、櫨などを集め、伊予からは米、醤油、酒、砂糖、塩、雑魚、日用品などが運ばれました。『檮原町史』には、明治維新以降、雑魚売りは俵津、狩浜から売りに来たということが記されています。土居からは高川経由で北宇和との往来もありました。

肱川を介した交流も盛んで、山間部で栽培された楮や三椏は大洲へ、櫨実は内子へと舟運を活かして運ばれました。木材は、坂石や硯(肱川)などの河港まで運ばれて筏を組んで長浜まで、大正期以降は繭や木炭が大洲方面へ搬出されました。筏師は、最盛期で坂石組に46人、横林組に34人おり、肱川本川筋、小田川筋で257人いました。

豊富な山城や山間部の町並み、峠道、茶堂などが、四国山地と肱川を介した交流の様子を今に伝えます。

この記事に関するお問い合わせ先

まなび推進課
愛媛県西予市宇和町卯之町三丁目434番地1
電話:0894-62-6415
ファックス番号:0894-62-1115

メールフォームによるお問い合わせ