国指定 八幡浜街道笠置峠越_

更新日:2018年07月06日


よ み:やわたはまかいどうかさぎとうげごえ

所在地:愛媛県西予市宇和町岩木、愛媛県八幡浜市釜倉


 

八幡浜街道笠置峠越は、西予市宇和町北東部から標高397mの笠置峠を越え八幡浜市南部にかけて所在する街道である。

最古の文献の記録としては、峠南麓の安養寺(西予市宇和町岩木)が所蔵する大般若経談に文明10~11年(1478~1479)に矢野保舌間浦(八幡浜市舌間)で書写したと奥書のあることから、室町時代には笠置峠を介した交流があったことがうかがえる。また、峠近くには、古墳時代前期の前方後円墳である笠置峠古墳が所在し、八幡浜産の緑色片岩を竪穴式石槨の蓋石に利用していることなどから、峠の利用はさらに遡る可能性がある。

宇和島藩の記録や小原村(西予市宇和町小原)の庄屋日記などから、三代藩主宗贇(むねよし)の元禄14年(1701)をはじめ、歴代藩主が参勤交代に利用していることも明らかとなっている。また、安政元年(1854)には、八代藩主(むね)(なり)が健歩という今でいうマラソンを軍事教練の一環で行った際のルートとなり、宗城自身も八幡浜まで遠出した。記録では、笠置坂で馬を下り徒歩で釜倉へ向かった。

寛政6年(1794)造立の峠の地蔵の台座には、後年のものではあるが「あげいし」(第43番札所明石寺、西予市宇和町明石)、「いづし」(出石寺、大洲市)、「やわたはま」(八幡浜)までの道のりが記され、この峠道が遍路道としても利用されていたことが分かる。

宇和島藩は遍路の統制を行っていたが、明和6年(1769)には、三机港で上陸させたのち笠置峠を越えて卯之町へ向かうことを認めるようになる。さらに寛政12(1800)には直接八幡浜への上陸なども認めた。こうした動向を反映するように、西予市側の街道沿いには遍路墓が残されており、とりわけ九州の地名を持つものが多い。

このほか、牛馬の安全を祈願する馬頭観音と大日如来がセットで八幡浜市側にも西予市側にも祀られているほか、シーボルトの娘楠本イネが二宮敬作を頼って卯之町を訪れた際も利用した可能性があることが指摘されている。峠を介した交流は戦後も続き、山田薬師の花祭り(灌仏会)の際は大勢の参拝客でにぎわい、茶屋だけでなく峠で商売するものもあったという。

近年では、地元住民団体により維持管理され、ウォークイベントや笠置峠古墳とあわせた利活用がなされている。

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