市指定 龍澤寺

更新日:2018年07月06日

龍澤寺

よ み:りゅうたくじ

所在地:西予市城川町魚成

所有者:龍澤寺

指定年月日:平成15年3月25日


 

兎門山龍澤寺は、末寺56ヶ寺に及ぶ曹洞宗總持寺派中本山の巨大な寺である。開基は、今から680年前鎌倉時代終わりごろ後醍醐天皇の元享3年(1323)、地方の豪族中尾坂城主(たいらの)(うねめの)正吉(かみよし)(さだ)の発願により徳翁正呈禅師が開山し、龍天寺と号し、古奈良谷(現鬼北町御開山)にあったが、その後荒廃していたものを、仲翁守邦禅師によって再興された。この中興の仲翁守邦禅師は九州島津元久の長男(幼名梅寿丸)で、ゆくゆくは大藩の主となる人であったが、幼児から仏心厚く、13歳で仏門に入り成道して後、九州香花院福昌寺の第三世となった。50歳の時遊下し、魚成村に脚を止め、当時衰微していた龍天寺を大島津の財力をバックに再興した。

現在の地奈良谷に寺を移し、龍澤寺と改号したのは、室町時代後花園天皇の御宇で、時の住職第四世蒲庵和尚が龍ヶ森城主豊後守通親の協力によって、康正元年(1455)に工を起こし、およそ30年を費やし七堂伽藍を建立したものである。戦国期には、小早川隆景、戸田勝隆、藤堂高虎などに特別の庇護を受け、天正13年(1585)小早川隆景からは龍澤寺への濫妨狼藉を禁じた制札を受けている。

寛政10年(1798)火災に遭い殿堂残らず焼失した。この際は、宇和島藩6代藩主伊達村寿公のおびただしい寄進によって、享和3年(1803)本堂の再建をはじめとして、33年の歳月を費やして、今日の荘厳雄大な大伽藍が再興された。再建にあたっては、周防大島から渡ってきた岡田家一族が龍澤寺大工として手腕をふるった。山門は初代久吾右衛門、久太郎親子が棟梁を務め、10年の歳月をかけて建立した傑作である。

偃月橋は嘉永2(1849)年再建。桁行5 間、梁間1間で切妻造り桟瓦葺きの木造橋である。別名竜門橋と呼ばれ、昭和44 年5 月に改築されているが古い部材も残る。

仁王門は宝永4(1707)年再建。正面1間内開き扉付きで、切妻造り銅板葺き、両側に1間幅の袖塀付き。仁王門も再建であるが、当時の部材や意匠も良く残る。

山門は寛政10(1798)年頃大火、天保13年(1842)落慶。大工職人岡田一族。木造二階丸柱、上階が入母屋造り桟瓦葺き、下層が下屋付桟瓦葺き。形態や様式は近世末期のもので、意匠は当時のもので長州大工系統の彫刻も素晴らしい。

本堂並びに開山堂は享和3(1803)年。間口33 間奥行8 間、木造平屋平入り寄棟造り桟瓦葺き。

座禅堂は文政6(1823)年再建。桁行10.5 間、梁間4 間、木造平屋平入り寄棟造り桟瓦葺き。梁間2 間切妻造り桟瓦葺きで正面に鉄板葺き。唐破風屋根の向拝を付ける、

方丈大書院は文化14(1817)年。桁行8 間、梁間4 間、木造平屋平入り寄棟造り。桟瓦葺き。

経蔵は昭和49(1974)年改築。桁行4 間、土蔵造。桁行4 間梁間2 間木造置き屋根切妻造り桟瓦葺き。

本堂及び開山堂及び方丈大書院と禅堂も規模が大きく、伽藍の中心的な建造物で、偃月橋から仁王門を経て石段を経て山門に至る動線沿いの建造物と中庭を囲む建造物の構成と配置の空間性は見事である。伽藍全体を見るとそれぞれの建造物は近世期後半に建築されて、改修も屋根などが部分的にされているが、良く管理されている。近世期後半の建造物群であるが、伽藍配置や個々の建造物の規模や空間性は、文化財として価値は高い。

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