市指定 前嶽溝

更新日:2018年07月06日


よ み:ぜんがくこう

所在地:野村町上野

所有者:上野地区

指定年月日:昭和56年2月13日


 

嘉永6年(1853)徳山駒吉氏が中心となり、野村西地区の灌漑のため、四郎谷出合から野村の岡池(野村小学校の西側バイパスを渡った岡部落の下で現在は埋立られて宅地となっている)まで肱川の水を導水した3,545mの水路である。夜間、ロ-ソクを灯し、遠方から目測で高低を計るなど苦心をして設計した。

当時の庄屋は、この工事は不可能だと許可しなかったが農民たちは工事を進め、岩場に木製の桶を設け、遂に文久2年(1862)「新井溝」と称する水路が完成した。しかしながら、この水路は小規模で水量が少なく、続く旱ばつに対応できなかった。

そこで大改修をするため打首を覚悟で宇和島藩主伊達宗徳公に直訴したところ、名君の理解あつく、改修工事は進められることになり、起工15年目の明治元年(1868)秋に完成をみた。藩主は親しくこれを視察されて、この水路を前嶽溝と名づけ、米を贈ってその功を賞した。これは、前嶽という工事の難所(1273m、うち手堀りのトンネル91m)から名づけられた。

その後、明治9年、その功を長く後世に伝えるため、地ヶ野に前嶽溝の記念碑が建立された。なおこの水路は、明治43年から一部を四国電力の水力発電に併用されてきたが、昭和55年、野村ダムの完成とともに難所は水没してその遺影をみることはできなくなった。しかしながらダム本体から下については、部分的に改修されたものの、依然としその姿をとどめている。

以後、余年の今日まで西地区では水不足が生じたことはないが、この工事のため私財を投げうち一生を捧げた徳山駒吉氏は、貧困のなか淋しく生涯を閉じた。のちに、前嶽院号と墓碑が追贈された。

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