【集落】春日神社

更新日:2026年01月23日

春日神社(本殿・中殿・拝殿・透塀・石造物)

狩浜の歴史性と祭礼文化を知る上で重要です。

由緒

『神社明細帳宇和郡』(明治10(1877)年)によると、由緒、勧請については不明と報告されており、創立沿革は明らかではありません。裏付ける史料はありませんが、郷土史家の久保高一氏が調査した内容に基づいて来歴を辿ります。

古代・中世(平安時代~安土桃山時代)

・伝承では、鎌倉時代初期頃に奈良の春日大社を勧請したと伝えられます。その後の沿革は不明ですが、後世の記録に永禄年間(1558~70年)に再興したとの記事があったといいます。

・しかし、境内からは9世紀代の須恵器の長頸壺や、9~11世紀の底部ヘラ切の坏が出土しており、大きさからして実用品ではなく祭祀用の可能性が高いため、平安時代にはこの場所がすでに祭祀的な場所であったことが推測されます。

近世(江戸時代)

・境内手水舎から本浦地区側に続く階段下には享保7(1722)年寄進の鳥居があり、江戸中期頃に作られた石の鳥居としてはたいへん希少なものです。また、枝浦側に続く階段下には天保9(1838)年の鳥居(=一の鳥居)があり、高さ3.75メートル、幅3.7メートルと、江戸期に建てられた鳥居の中でも大型です。いずれも西予市指定有形文化財となっています。

・このほか、境内の燈籠や狛犬などの石造物には、寛政、天保、弘化など江戸期の年号の刻銘が多数みられます(春日神社の石造物一覧表(PDFファイル:299.5KB)

・本殿は、寛保3(1743)年に立間八幡神社新築の折に譲り受けたとされますが、平成31年時点の本殿はすでに建て替えられたもので、当初の本殿は失われています。

・中殿と拝殿は慶応元(1865)年の築とされていますが、同時期の西予市内の社殿と比較すると、もう少し遡った時代とも考えられます。

近代(明治時代~戦前)

・明治4年(1871年)の太政官布告で「社格制度(注)」が定められたことに伴い、同年7月4日に「郷社」となります。

・明治42(1909)年に、客人、須賀、住吉、皇祖、恵美須、建速、金毘羅神社を合祀します。

・明治45(1912)年、「狩濱商人中」と刻銘のある七五三柱が寄進されています。

・昭和5(1930)年3月18日に本殿修理のため、遷座祭をおこなっています。

(注)…社格制度とは、明治政府が神道を国家管理下に置き、神社の格式を等級化した制度です。延喜式の社格を参考に官社(官幣・国幣)、諸社(府社・県社・郷社・村社)、無格社に分類し、神社の祭祀や管理を容易にしましたが、戦後に廃止されました。

現代(戦後~)

・令和2~3(2020~21)年にかけて拝殿、中殿、透塀を、令和5(2023)年に本殿の修理がおこなわれました。

 

祭礼文化

狩浜の秋祭りに欠かせないのが、牛鬼などを中心とする「練り」で、その種類の豊富さは愛媛県内でも際立ち、南予地方を代表する祭礼といえます。現在の練りは神輿、太神楽、角力練り、巫女の舞、五つ鹿、御船、牛鬼、俄があります。これらは地区ごとに担当が決められ、継承されてきました。太神楽、角力練り、牛鬼は本浦地区、五つ鹿は大狩浜地区、御船と俄は門之脇地区の練りとして受け継がれています。

 

1.五つ鹿・宝多(ほた)

南予地方の祭礼の芸能として広く見られ、「シカノコ」などとも呼ばれます。江戸時代初期に宇和島藩主伊達秀宗(伊達政宗の長男)が宇和島に入部したことが縁となり、仙台から伝わったもので、東北地方に伝わる「シシオドリ」がそのルーツとされています。狩浜地区に伝播したのは天保2(1831)年頃と推定されており、安政元(1854)年に鹿面を新調していることから、江戸時代後期には演じられていたことは確実です。五つ鹿は練りの中でも神聖なものとされ、祭りの最初と最後に演じられて締めくくられます。

また、鹿踊りの際に控える獅子頭は江戸時代中期の作で、「宝多」と呼ばれ親しまれています。

五つ鹿

宝多

 

2.角力(すもう)練り

狩浜の角力練りは、明治27(1894)年頃、狩浜出身の大阪相撲大関の「西の海」一行の大相撲直後といわれています。行事2人が口上を述べ、子供力士が甚句に合わせて手踊りを披露します。行事は裃をつけて軍配を持ち、力士は化粧まわしを付けて甚句にあわせて踊ります。

角力練り

 

3.太神楽(だいかぐら)

屋台に乗せられた締め太鼓、大太鼓や手に持った鉦(かね)を叩いて演奏します。地元では「テントン」と呼ばれ、地区内を回って悪魔退散家内安全を祈願します。宇和島城下から伝播したものと考えられていますが、現在愛媛県内では類例が見られません。

太神楽

 

4.牛鬼

狩浜の秋祭りを盛り上げるのが牛鬼です。鬼の形相の頭に、長い首、牛を模した胴体、尻尾には剣を付けます。頭は張り子細工で、毎年本浦の牛鬼組が修繕もしくは新調します。土壁の粘土で原型をつくり、泉貨紙と呼ばれる南予地方山間部で生産される和紙を幾重にも張り合わせて頭を整形していきます。胴体は竹を編んで蔓で縛り、棕櫚(しゅろ)で覆われます。牛鬼は御旅所に神霊が無事に安置されるよう神輿を先導し、露払いをして回ります。牛鬼は宇和島市のものが全国的に知られていますが、南予地方全域に分布しており、頭の形相や胴体の形などは地区によって異なります。

牛鬼組の着衣は黄色の生地にお多福の図柄が描かれた警帑(けいど)と呼ばれる衣装で、締め込み、黒足袋姿です。通りを歩く際は無言で、顔を見せないように手ぬぐいを被ります。掛け声の「ヤーエィトコ、ホンホンエー」は「浜よいとこ」と呼ばれ、慶事には好んで披露されます。

牛鬼

牛鬼組

 

5.神輿

この祭りには3基の神輿が欠かせません。本浦地区から枝浦地区への海上渡御、さらにクライマックスの宮入りでは、この神輿の勇壮な走り込みで幕を閉じます。

神輿

 

6.巫女の舞

巫女となるのは小学生の女子4人で、千早に緋袴、天冠をつけて白足袋を履き、神楽鈴と御幣を持ち、祭り前日の宵宮と祭り当日の数回、神前で舞を奉納します。大正時代から続けられているといわれます。

巫女の舞

 

7.御船(おふね)

江戸時代に藩主が参勤交代で用いた御座船を模して作られたといわれます。「道弾き」といわれる三味線と「アーイーヤー」という掛け声で朝早く道中を練り歩き神社を目指します。御船組は子どもと青年とで構成されており、あでやかな和装で踊りを披露します。

御船

御船組

昭和30年代の御船組

 

8.俄(にわか)

御船組のOBなどでにわかに作られ、仮装行列で観衆を楽しませます。老いも若きも自らが参加し、飛び入りも歓迎されます。

俄

 

写真  大本敬久撮影(平成17年)

参考 『西予市文化的景観調査成果報告書』(西予市教育委員会,2018)p.121~143

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